心と命に刻まれる愛の約束        エレミヤ書第31章31〜34節

 
  私たちが教会学校の一グループで使っている『聖書教育』の「おはなし」の中に、今日の箇所を取り上げた部分があります。こんなふうに語っています。「ユダ 王国は、ついにバビロンによって滅ぼされました。エルサレムの町はガレキの山となり、神殿は崩れて跡形もなくなってしまいました。エレミヤは『ユダ王国は 滅びる』と語ってきましたが、本当に滅びてしまったのを見て、深く悲しみ、涙を流しました。後に『涙の預言者』と呼ばれるようになったエレミヤは、ガレキ が積まれたエルサレムの廃墟の中を、泣きながら歩き回っていました。すると、神さまの声が聞こえました。『エレミヤよ、わたしがイスラエルとユダの地に人 や動物を連れ戻す日が必ず来る。この前までは、イスラエルのことを草を抜くように壊し、滅ぼし、災いを与えてきた。しかし、今、わたしはイスラエルを草を 植えるように建てなおそう』。」(『聖書教育』2013年10〜12月号より)
 神様が語ってくださるのです。語りかけ、働きかけてくださるので す。とりわけすべてを奪われ取り去られて、失望と落胆、さらには絶望と虚しさの中にある人たち、その一人一人に神様が語りかけ、働きかけてくださるので す。今は、クリスマスに備え、待ち望むアドベントですが、「神を待ち望む」とは、まさにそういう中にあって、その神様を求め、神様に期待し、神様にすべて をお任せしつつ、待ち続けていくことではないでしょうか。

 神様が廃墟の中で、エレミヤを通して、イスラエルの人々に語ってくださった言 葉、それは思いもよらない、実に意外なものでした。「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約は わたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。」
 何が意外と言って、今までは、「神がかつてあ なたがたの先祖またあなたがたと結んだ契約を守れ、何が何でも守れ」と固く言われ、言われ続けてきたからです。聖書の信仰、聖書の神を信じる信仰は、「契 約を結ぶ」という形で行われます。なんとなく神様がわかるのでもなければ、自然に神を知り神を信じるというのでもなく、神様がはっきりとイスラエルを始め とする人間に語りかけ、これこれこういうことで私を信じなさい、そして私と約束を交わしなさい、あなたがたはそれに基いて私を信じ、私の言葉に従って生き ていきなさい、というのが聖書の「契約に基づく信仰」なのです。それは、イスラエルにとって「出エジプト」に引き続く契約でした。神様が、エジプトで奴隷 の苦しみを味わっていたイスラエルを、不思議にも救い出して「神の民」としてくださったという、一世一代の、これ以上ない、これ以外ないといほどの、決定 的な契約だったのです。

 しかし今、その昔の契約ではなく、「新しい契約を作り、新しい契約を立てる」と神はイスラエルの人々に向かって言われるのです。
  なぜ今「新しい契約」なのか。それは、「古い契約」を守れなかったからです。「わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言 われる。」この言葉の背後には、神様の深い洞察があります。イスラエルの契約違反は、ただの一時的なものではない。「たまたま破った」のではなく、「次か ら頑張ればよい」というものでもない、イスラエルに代表される人間の性質はあまりにも悪くて、その悪さは変えようもなく、人は神との契約、神に対する真 実、その信仰を破り、神に背き続けるものなのだ。「ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行 うことができる。」(エレミヤ13・23)
 人間が変われないなら、どうするのか。神様は「契約違反だ、もうだめだ、契約は廃棄し、あなたがたを もう見捨てて、助けないことにする」とは言われなかったのです。「あなたがた人間が変われないなら、わたしの方が変わろう」と考え、語ってくださったので す。「新しい契約を立てよう、新しく約束を結ぼう、それによって新しい関係、新しい時代を築こう」と言ってくださるのです。「見よ、わたしがイスラエルの 家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。」

 その「新しい契約」とは何でしょうか、どんなものでしょうか。その「新しさ」、決定的・究極的な「新しさ」とは、いったい何なのでしょうか。
  「それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。」かつての 「出エジプトの契約」は、「十戒」の映画にも出てきたように、その約束・命令の言葉が、二枚の「石の板」に刻まれ、記されました。ところが、今度の新しい 契約では、その神様の言葉は、「石の板」ではなく、人々の「うちに置かれ」、その「心に記される」ことになるのです。
 これは、いったいどういう 意味でしょうか。それは、単に「心の中」とか「内面」というようなことだけではありません。むしろそれは、神様の言葉、神様の語りかけ、またそこに表わさ れている神様の心・思いが、人間の命そのもの、私たち一人一人の丸ごとの命そのものに刻み記され、ずっとそこに残り続け、留まり続け、働き続けるというこ となのです。「ここで注目すべき『新しさ』は『心』に表わされています。『心』とは、心臓を意味する言葉であり、単に私たちの内面のことではなく、まさに 命そのものに刻まれる契約であることを意味しています。」(『聖書教育』、同上)

 なぜなら、こう語られているからです。「わたしは彼ら の神となり、彼らはわたしの神となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは酒を知りなさい』とは言わない。それは、 彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。」
 それは、何か、私たち人間の心が変わり、心がけが変わるとい うようなことではありません。もしそうであれば、私たちはいつか、近いうちに神の前に行き詰まってしまうでしょう。そうではなく、神様が、神様の方が、私 たちとの関係を変えてくださる、私たちへの働きかけ方、その方法、その内容、その道を変えてくださるのです。それは、「主を知るようになる」ということで す。「知る」とは、日本語の「知る」よりもはるかに深い言葉です。それはむしろ「愛する」ということです。それは神様の方から「知って」「愛して」くださ るのです。一方的に、そして圧倒的に、神様の方から私たちを愛し、知ってくださる。
 私は、イエス・キリストが話された、あの「放蕩息子」の話を 思い出すのです。息子はもうあきらめています。なんとか常識の中で、父と話をしようとしています。絶望的な計算も目論見もしています。しかしそれは、彼が ずっとこれまで犯してきた罪、不幸、そして裏切りからしたら、どれほど力があるのでしょうか。しかし、今や、この息子のところに、父が、父の方から駆け寄 ります。父の方から、彼を抱きしめ、彼を受け入れ、彼を赦し、彼を飾るのです。「いなくなっていたこの子が帰って来て、死んでいたこの子が生き返った」 と。
 神の方から私たち、背いた者たち、裏切った者たち、神を知らないように無視していた、者たちに駆け寄り、大いなる赦しのうちに語りかけ、愛 してくださるのです。この底知れない愛の中に、神は私たちの近く、ごく近くにまで来てくださり、共にいて、い続けてくださるのです。神が私たちを深く知っ てくださる、そのときにはじめて、私たちもまた神を少しだけ「知る」「愛する」ことをし始めるのです。
 「私は昔、証券会社にいながら、変わるこ とのない聖書の言葉に心が惹かれるようになりました。宗教改革者マルティン・ルターは、『神の愛は、愛する相手を見出すのではなく、創造する。人間の愛 は、愛するに値する者を見いだすことの中にのみ生まれる』と言いました。―――私たちは心の内側を見るときに、自分が愛されるに値しない存在であるかのよ うに見えます。しかし、福音とは、そのような者を名実ともに愛するに値する者へと造り変えるものなのです。」「しかし、信仰とは、キリストの真実から生ま れるとわかったとき、心が楽になりました。不真実で不信仰な者を真実な信仰者へと造り変えてくださる神の真実に目を向けたいと思います。」(高橋秀典 『今、ここに生きる預言書』より)

 「新しい契約」、これが最も大切な言葉です。「新しい契約」、ここから「新約聖書」の信仰は始まりま した。私たちキリスト者またその教会は、この「新しい契約」は、ほかならぬイエス・キリストによって表わされ、成し遂げられ、与えられたと信じ、生きるの です。クリスマスは、この「新しい契約」の実現の始まりです。
 イエス・キリストご自身が、あの最後の晩餐で、「新しい契約」を語られました。 「主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するた め、このように行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念とし て、このように行いなさい』。」(Tコリント11・23〜25)
 神様の方から、私たちのところへと歩み寄り、駆け寄ってくださいました。神様の ところからイエス・キリストが来て、私たちのただ中にいてくださるのです。「からだと血」とをもって、それをすべて注ぎ、投げ出し、ささげて私たちを愛し つつ、主イエスは私たちのただ中に、私たちの極めて近くにいてくださるのです。
 イエスは、私たちが今まで決して知らなかった「新しい人間」とし て、いてくださるのです。「神を知り、神を愛し、また神が創られた人を極みまで愛して、そのために丸ごとの自分をささげて生きる人間」です。「神を愛し て、神のためにすべてをささげる人間」として、イエスは生き、死に、そして復活してくださいました。
 このお方が、この私たちをも、私たちの教 会、私たちの生活、私たちの人間関係をも、私たちのこの社会、この世界をも新しくしてくだいます。「大切なのは、新しい創造を生きることです。『日々新に されて』生きることです。『自分を変えていただ』く。なぜなら、信仰の神秘とは、『今と異なる状態に変えられ』ることだからです。地上の人生が終わって、 キリストと共に『そのときには、顔と顔を合わせて見、そのときにははっきり知るようになる』まで、毎日少しずつ『変えられ』ながら歩むのです。毎日、わた しは昨日のわたしとはちがう、変えられて新しくなった、という体験を積むことのみが、最後の大変化、―――死とその先の命に向けてわたしたちを準備してく れるのです。人間という存在は、自分自身をも、社会をも、世界をも、変えることができるのだと確信することによってのみ、救いの歴史の方向に沿って生きる ことができます。」(犬養道子『新しい創造 聖書をよむために』より)このお方が、私たちの心、命そのものに、神の愛を刻んで約束し、それを実現、完成へ と至らせてくださるのです。「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。」

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父よ。御子イエス・キリストにおいて、私たちを極みまで愛された神よ。
  あなたは「新しい契約」を約束し、立て、実現されました。イエス・キリストこそ、「新しい契約」の実現そのものです。主イエスが来られ、生き、死に、復活 されたことによってこそ、あなたは私たちの神となり、私たちはあなたの民とされました。あなたが私たちを深く、愛をもって「知って」くださったゆえにこ そ、私たちもまたあなたを「知り」、あなたを愛することを知らされ、あなたと他者を愛することを学び始め、生き始めました。
 この新しい命のうちに、私たち一人一人と教会を導き、送り出し、お用いください。
まことの道、真理そして命なる救い主イエス・キリストの御名によって切に祈ります。アーメン。

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