ないないづくしの中の救いと希望        イザヤ書第42章1〜7節

 
  預言者は落ち込んでいました。立てないでいました。主なる神様から、バビロン捕囚の中にあるイスラエルの民に語りなさい、破れと絶望の中にいる人々に慰め と希望の言葉を語りなさいと言われたのですが、その使命を果たせないでいました。この「第二イザヤ」と呼ばれる預言者は、「慰めよ、呼びかけよ」と召命を 受けたのですが、それに応えきれなかったようです。戦乱や土地や社会の荒廃で傷つき、弱っている民の姿、彼らを取り囲む問題・状況の深刻さに圧倒されて、 立ち上がる力も出て来なかったのでしょうか。だから、神様がこう嘆かれています。「わたしはよきおとずれを伝える者をエルサレムに与える。しかし、わたし が見ると、ひとりもいない。彼らの中には、わたしが尋ねても答えうる助言者はひとりもいない。」(イザヤ41・27〜28)

 しかし神様 は、それであきらめるような方ではありませんでした。今神様は一人の「僕」の姿を描き出し、この「僕」のイメージを預言者にぶつけて、挑み招こうとされる のです。でも、それは不思議です。「あっ」と驚く姿なのです。なぜなら、それは「ないないづくし」だからです。
 「わたしの支持するわがしもべ、 わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道を示す。彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに 聞えさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道を示す。」なんと、ここでは、後の言葉も含めると、七つの否定 によって、その僕の姿が描かれるのです。「叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず」「傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心 を消すことなく」、そして「衰えず、落胆せず」の、七つです。「ないないづくし」なのです。

 これはいったい何を意味するのでしょうか。
  まず、それは全く新しいリーダー、指導者像であるということです。今までイスラエルを導いた人々、それは「王」であり「預言者」であったわけですが、かれ らは皆「叫んだ」のです、「声をあげた」のです、そして「声をちまたに聞えさせた」のでした。私たちの社会でも、人々を代表して、政治や経済を動かそうと する人たちは、「声を上げ」「叫び」、なんとかしてその「声をちまたに聞えさせよう」とします。選挙の時期になると、選挙カーが候補者の名前を連呼して走 ります。古代の当時の王たちもまた、叫んで声を上げ、それをちまたに響かせようとしました。そして、いかに自分に力があり、民を導き、幸いを与えることが できるかをアピールしたのでした。
 預言者たちも同じです。「黙っていては、人々に届かない、伝わらない」と、町の広場や神殿の入り口に立って、 「聞きなさい、主はこう言われる」と、必死で人々に向かって声を上げ、叫んだのです。この「イザヤ」もそうでした。「自分もそうならなければ。そうでなけ れば、主の預言者として失格だ。人々に主のメッセージが届くこともない。」でもできない、それで彼は落ち込み、失望し、座り込んでしまっていたのです。
  しかし今神様は、そんな預言者に対して、全く違う、全く新しい人の姿を描き出し、ぶつけるのです。それは「僕」と呼ばれます。「王」や「預言者」や「祭 司」ではなくて、「僕」です。それは「仕える人、下に立つ人」、「奴隷」をすら意味する言葉です。「あなたが声を上げられない、叫べない、声をちまたに響 かせられないというなら、それでよい。わたしは全く新しい奉仕者の姿を描き出し、そのような者を生まれさせる。あなたもそのままで、語れないまま、声を上 げられないまま、叫べないそのままで、わたしの『僕』として全く新しく出発しなさい。そして、わたしが導くままに、全く新しい姿で、わたしと人々に仕えな さい。」

 次に、神様が描き出される新しい「僕」の姿、それは弱さや生きづらさをを経験し感じている人々への保護と助けです。「傷ついた 葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく」と語られています。「傷ついた葦」、深く傷つき、今にも折れ枯れてしまいそうな葦、「暗くなっていく灯 心」、注ぎ足すべき油がもはやなく、もう消えてしまいそうになっているランプ、それは捕囚の混乱と戦乱、土地と社会の荒廃の中で、弱り果て、傷つき、倒れ 果ててしまっているイスラエルの人々、とりわけその中でも比較的弱く貧しい人たちを指し示す言葉です。
 かれらをかばい守りつつ、「僕」は「真実 をもって道を示す」、「裁きを導き出して、確かなものとする」(新共同訳)のです。それはまさに、かつてイザヤが「善を行うことを学び 裁きをどこまで実 行して 搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り やもめの訴えを弁護せよ」(1・17)と訴えたような正しい「裁き」そのものです。「まさに掻き消されよ うとする魂の灯心と一体化しつつ、しかも自らは愛の灯心をかかげ続ける」(戸村政博)のです。
 神様は預言者に向かって言われます。「あなたは自 分の弱さを知り、弱さを味わい、弱さを学んだのか。それならあなたは、同じように自らの弱さの中で、弱さのゆえに傷つき、絶望し、閉じこもっている人の心 と気持ちがわかるだろう。その人たちの場に共に立ち、共にあり、そして共に生きることができるだろう。そのようにして、かれらに仕え、かれらにわたしの心 を伝えなさい。」

 そして、この「僕」の姿、さらにそれは、新しい価値への転換と希望の約束です。この何もしないような、何もできないよ うな「僕」の姿、「僕」の生き方、「僕」の存在そのものが、神様の喜びであり、神様が支持なさるものです。またそれこそが、「もろもろの国びとへの道」と なり、「真実をもって示される道」となり、また「海沿いの国々が待ち望む」希望となるのです。どうしようもない人間の弱さの中にこそ神様の粘り強く愛し支 え生かす強さが現われ、絶望的な無力の中にこそ神の「衰えず、落胆しない」不思議な力が明らかにされるのです。「弱さを覚えているのか、無力を感じている のか。そのあなたを、わたしは立てよう、送り出そう、用いよう。そのあなたを通して、わたしの力、わたしの強さを示し、表そう。」

 この 「僕」の姿、それは預言者が目指すべき目標であり、そこへときっと至り、そのようになり、そうして用いられるであろうという神の約束であり希望です。それ は、この「僕」へと、この預言者をも呼び、召すためであったのです。「主であるわたしは、正義をもってあなたを召した。わたしはあなたの手をとり、あなた を守った。わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光としてあなたを与え」たのです。(6節)彼は、再び神さまの任命を受けたのです。その働き は驚くべき実りをもたらすことが約束されます。「盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる。」(7節)
 し かも、この「僕」の姿は、「彼」一人に限定されません。それは本当はイスラエルの民の使命であったのです。「最も小さく、弱く、また罪深い民」、それが神 の愛と憐れみと真実の証しとなるはずだったのです。本来神の民イスラエルこそが、このような「諸国民のための、神の僕」としての存在となり、役割を果すべ きであったのです。しかし、イスラエルは今その使命に破れ、背き、沈み込んでいます。

 けれども、神の真実は決して変わらず、すたり、滅 びることはありません。このイスラエルから出る一人の人が、やがて必ずこの神の呼び出しと任命を受け、その使命を果たすでしょう。この方こそ、イエス・キ リストであったのです。あの「僕」の姿は、イエス・キリストの中へと集中し、凝縮していくのです。
 イエス・キリストは、イザヤ書53章でこう語 られている人だとされています。「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの 人で、病を知っていた。」それは最初に、あのベツレヘムの飼い葉桶での誕生から始まりました。「ああ、ベツレヘムよ」、あなたの中にこのお方が生まれたこ とを知らないのか!? そして、その歩みと生涯は、ついにあの十字架にまで至りました。「叫ぶことなく、声をあげることなく」、その「声はちまたに聞えさ せ」られることはありませんでした。その祈りも叫びも、誰も耳を傾けず、虚しく空に消えていったように思われました。そしてイエスご自身も、無理矢理「折 られた葦」のように、「ふき消された灯心」のように殺され、死んでいかれたと見えました。
 しかし、「彼は衰えず、落胆せず」、主なる神、父なる 神は、イエスを復活させられました。復活の主イエスは、「ついに道を地に確立」し、「もろもろの国びとに道を示され」たのです。そしてそれは、すべての人 が待ち望む希望、「もろもろの国びとの光」となったのです。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」のです。(Tコリント1・25)
  イギリスには、「マーティン・ハウス」という、子どものホスピスがあるそうです。そこには多くの難病の子どもとその家族がやって来ます。それは死が遠くは ない子どもたちです。人間の中で最も弱さを経験している人たちと言ってよいかもしれません。その場所を訪れた人の証・対談です。
 「死んでいく子 どもっていうのは最弱の存在でありながら、周りを変える力があるんです。真ん中にいる子どもたちに、みんなはやさしい視線を注いでいる。そして、みんな物 静かで、多分ずっと考えているんです、いろんなことを。そして不思議なことに微笑みを絶やさない。やはり、これも院長がおっしゃった言葉ですが、子どもは みんなブライト(聡明)なんだ、と。そして、そのブライトネス(聡明さ)を周囲が受け継いでいく。つまり、そこにいる人たちもブライトになっていく。たと えば、ユーモラスになったり、人の気持ちをいっそう思いやるようになったり。」「一番弱い存在の子どもが、周囲をそういうふうに変えていくわけですね。」 「死んでいく子どもの前では、大声でどなったり、自己中心的なことを言ったり、聞きかじりのことをしゃべったり、くだらないうわさ話なんて、恥ずかしくて できないでしょう。―――そういう力がそこかしこにあり、元をたどればそれは、子どもたちが発してるものだとわかる。そこに存在しているだけで強い影響力 を発することができるんですね。だって寝たきりでしゃべれない子どもも多いんですよ。にもかかわらず、ポジティブな力を親だけじゃなく、周りに及ぼしてい く。すごいことですよね。」(高橋源一郎/辻信一『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』より)

 私も、そしてあなたも弱り、衰え、落胆してはいないでしょうか。神の言葉を信じ、それに任せ、期待することに疲れ、ためらい、ましてそれを他の人々に伝え、分かち合い、証しすることに疲れ、失望し、へたり込んでしまってはいないでしょうか。
  しかし、あの預言者に語りかけ彼を召された主なる神は、今あなたに対して声をかけ、あなた呼び、あなたを「主の僕」として任命し立てようとなさいます。 「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ」と。私たちの先には、ベツレヘムの飼い葉桶に生まれ、十字架の死にまで至り、そして復活し て今も生きたもうまことの「神の僕」イエス・キリストが共にいてくださいます。イエスこそ、「ないないづくし」の中での私たちの救いと希望なのです。

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父よ、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
  あなたは「わたしの僕を見よ」と語りかけられました。そして、この一人の人の姿と道を通して、あなたの御心と、弱さのただ中に働き現れるあなたの力とを開 き、示されました。その「僕」は、ついに私たちの間に来られました。あのクリスマスの御子イエスこそ、その方でした。イエスが今も私たちに語りかけ、ご自 身の姿と、あなたの力とを私たちにも示し、与えてくださいます。
 どうか私たちがこのお方とその力とを信じ受け入れ、それによって支えられ、導かれて生きることができるようにしてください。あなたのこの力の証人として送り出し、それぞれの場でお用いください。
すべての人の救い主、導き手また完成者なるイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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