死の奴隷を解き放つ        ヘブル人への手紙第2章14〜18節

 
 今日は毎年一回、既に神様のみもとに召された方々を記念し、その生涯と信仰の証しとを想い出して、そこから教えられつつ神様を礼拝する、召天者記念礼拝です。
  毎週毎週の礼拝には、ポイントと言いますか、中心があります。今日のこの礼拝では、特に私たちの「生と死」ということを、共に聖書から聞き、共に考え、受 け止めます。今日ご一緒に心に留めている方々は、皆それぞれの「生と死」を、それぞれの道をたどってくぐり抜け、そうして神様のみもとに至った方々なので す。
 ですけれども、実はそれは、絶えず毎日の私たちの課題です。「生と死」。なぜなら、私たちが「生きている」というのは、実は絶えず「死に向 かって」生きているのだからです。あるホスピス病院の先生はこう語られました。「皆さん、あなたがたが死を迎える確率は百%です。」ヨーロッパ中世の修道 院では、いつもこの言葉が交わされました。「メメント・モリ、死をいつも考えなさい。」なぜなら、私たちは必ずいつの日か、それぞれの死を迎えるからで す。

 そういう例外なくすべての人にとって間違いなく来るであろう「死」、これについて、私たちはどのように受け止め、どのような備え・ 準備をしているだろうか、と思います。そうしますと、驚くべきことに気付かされるのです。私たちのほとんどは、「何も準備をしていない」「何も考えていな い」ということが、多いのではないだろうか。
 聖書は、そんな私たちに対して、大変厳しく重い見方をしています。それはこの言葉です。「死の恐怖 のために一生涯、奴隷となっていた者たち」。今日の題です。「死の奴隷」、ずいぶん物騒な、物々しいような題だなと、我ながら思いましたけれど、実はそれ は私たちみんな、一人一人のことだというのです。「死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たち」。「何も考えず、準備もしていない」ようだけども、 実は日々刻々、絶えず死を意識している、そして何より死を恐れ、死によって影響され、支配されている、それが私たちではないのか、というのです。
  山川千秋という、フジテレビでアナウンサーをしておられた方がいます。彼は、ある時、「重いガンであり、余命わずかである」と診断・宣告されました。この 時から、山川さんの人生観はがらっと変わりました。「死」という、誰もが否応なく出会わなければならない課題に、真正面から向かい合うようにされたので す。彼がある時、療養の合間に東京の銀座に出かけることがありました。その時に、山川さんはこう感じ、考えたそうです。「この間、金曜日の夕方、銀座に出 ました。時間が少しあったので、ひとり、並木通りの?月堂に入りました。人々は本当に幸せそうに見えました。世界でもっとも繁栄している国のもっとも洗練 された街角。不幸の影などどこにあるの・・・・といったサザメキで満たされていました。しかし、この人たちにも、死は必ずやってくる。死は平等です。その とき、この人たちはどうするのだろう。人は、うろたえ、絶叫し、ごまかし、そして絶望のなかに死を迎えるのではないか。」(山川千秋・穆子『死は「終り」 ではない』より)

 「死の奴隷」、そのような私たちのために救い主が来られたと聖書は語ります。それが、イエス・キリストです。「救い 主」というと、私たちはどんなイメージを思い浮かべるでしょうか。川で溺れている人がいたなら、岸辺から救助用のロープか浮き輪を水に投げ入れて、「さ あ、ここにつかまりなさい、私が引き上げてあげるから」、そんなことを考えるかもしれません。
 しかし、違います。イエス・キリストは、全く違っ た仕方でおいでになったのだと聖書は告げるのです。「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておら れる。」「子たち」というのは、私たち人間のことを指しています。私たち人間は「血と肉」とを持っているというのです。「血と肉」、それは第一に「肉体」 ですが、同時にそれに伴う「弱さ」「もろさ」「はかなさ」を表わす言葉です。それは、使い続ければ「痛み」、「傷つき」、「弱り」、「損なわれる」、「血 と肉」です。そしてそれは、時に「病み」「倒れ」「伏し」、やがては必ず「死ぬ」「血と肉」です。
 ところがこの救い主イエス・キリストは、この 「血と肉」を同じように、私たち一人一人と全く同じように、持っておられたし、持っておられるのだと、聖書は語るのです。私たちと全く同じ弱さ、同じ傷つ きやすさ・痛みやすさ、同じはかなさ・虚しさ、そして全く同じ「死ぬものである」という性質を、イエスはあえてお持ちになったのだというのです。「スー パーマン」ではなく「ただの人間」、しかも最も弱い「十字架を担い、ついには十字架で最低の死を迎える人間」となってくださったのだと、聖書の福音は告げ るのです。このことを、この手紙はこう語ります。「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈 りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。」(ヘブル5・7)

 それは、いったい何のためでしょうか。 それは、何より「私たちの兄弟となるため」でした。「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆ る点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。」「死」において、と言ってもまだ私もまた死を直接経験したわけではないので、偉そうに言うこと はできないのですが、「死」を考えるときに、最もつらく厳しいだろうなと思われるのは、「死ぬのは一人」だということです。「孤独」「独りぼっち」、「人 は独りで生まれて来て、独りで死んで行く」という考えがありますが、それは確かにそういう面はありますが、実に寂しく、そして厳しいことではないでしょう か。だれも、私と共にこの痛み、この苦しみ、この嘆き、この恐れを担ってくれる人はいない、私はただ一人この最大の試練に向かい合わなければならない、そ れは本当に過酷なことです。
 しかし、福音が告げるのは、そんな私の傍らに一人の方が確かに共に立ってくださるということです。それはイエス・キリスト、イエスはそうして私たちと共にある者「兄弟」となるために、「すべてを同じ」、「血と肉」をも共に持つ者となってくださったのです。

  そしてそれはまた、イエスが私たちを理解し、私たちに共感し、そして私たちと連帯するためです。「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中に ある者たちを助けることができるのである。」確かにその通りです。自分が経験もなく、知りもしないことで、人を助けることはできません。ピアノを弾いたこ ともなく、弾けもしない人が、「ピアノはこう弾けばいいんだよ」などと教え、助けることはできないように、「死」を知らず、その過酷さ、恐ろしさを全く知 らない人が、「死」のただ中で危機にある人を助けることはできないでしょう。
 しかし、イエス・キリストは、まさに「死」を経験し、味わい、そし てさんざんにくぐり抜けられました。「十字架」は、最大の苦しみであり、最低の死に方です。この世のあらゆる試練と苦しみ、あらゆる矛盾と不正そして不条 理、そしてあらゆる恥と呪い、それらがただこの一点に凝集し、凝縮している、その苦しみであり死なのです。イエス・キリストはこれを経験されました。だか らこそイエスは、どんな苦しみ、どんな死の道、死の淵にある人をも理解し、助け、そして連帯して、まさにその場所で、その人と最後までどこまでも共にある ことがおできになるのです。

 そしてそれは何より、イエスが「死の奴隷」であった私たち一人一人を、その囚われ、恐れ、絶望から解き放 ち、自由にしてくださるためでした。「イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼ し、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためであった。」「死の恐れ」の根源には、神への「罪」がある、それが聖書が射抜く 「死」の核心です。私たち一人一人は、神様から離れ背き、神様に喜ばれない生き方をし、道を歩んでいる、それが「罪」です。私たちは、神様が願うようには 生きず、むしろ自分やこの世が、そしてこの世の悪の代表とされている「悪魔」が願うように生きているのです。それこそが「罪」なのです。
 「死」 の向こうにあるのは、神との出会いです。神の前で、私たちが生きて来たこと、歩んで来た道、やって来たこと・やって来なかったことがすべて、ありのままに 明らかにされ、そして神の判断・評価・裁きを受けなければなりません。それが、最も「恐ろしい」のです。今まで、神様に「顔向けできない」ように歩んで来 たので、まさに穏やかに、安らかには神様のところに行けないのです。
 しかし、イエス・キリストは、その私たちの罪、私たち一人一人の罪を引き受 け、担い取ってくださいました。そしてイエスは、私たちの先頭に立って死と向き合い、死とたたかい同時にこの世の罪と悪「悪魔」とたたかい、そうして、そ れらすべてを、とりわけ「罪」と「死」を克服し、乗り越えて、勝利を得てくださいました。これが、イエスの「十字架の復活の生涯」です。イエス様は、私た ちをこの勝利の道、必ず希望と栄光に通じる道を、私たちを連れて行き、そして私たちを最後のゴールまで至らせてくださるのです。こうして、私たちを「死の 奴隷」から解放してくださったのです。
 山川千秋さんは、こう語りました。「人間は、自分の力では、『死』に勝つことは絶対にできないことは、自 分がこの病を得て、よくわかりました。『オレは大丈夫だよ』とは、私は言いません。しかし、私は救われると、今、言うことができます。」「人間はいら『気 力』で頑張っても、ダメです。人間はそんな強い存在ではありません。神を信じ、すべてを神の手にゆだねることだけが、死に勝つ唯一の道です。」(前掲書よ り)そしてそれは、彼一人の言葉ではなく、今日共に記念している、すべての召された方々の確信であったのです。かれらを支え導いたイエス・キリストの言葉 です。「わたしは道であり、真理であり、命である。」

 最後に一言、イエス・キリストへの信仰によって、「死の奴隷」から解放されるこ と、それはただ個人的な「私一人」の事柄にとどまらないのです。「死」の特徴が「孤独」であり「独りぼっち」であり「私独り」であったならば、主イエスに よって「死」から解放され救われた人は、もう「私一人」のことを考えて生きるのではありません。
 この世では、死と悪魔は、「死」をもって私たち を脅し、縛ります。「そんなことをしているとあなたは生きていけないですよ、死んでしまいますよ、だから他の人のことは放っておいて、自分のことだけを考 えなさい」。しかし、イエス・キリストが、「血と肉」を選び取って、私たちを理解し、私たちを助け、私たちと連帯しようとなさったように、イエスによって 「死の奴隷」から解放されるとき、私たちもまた、それぞれの仕方と度合いにおいてですけれども、それでも「イエスが生きられたように」、私たちも生き、そ して死を迎えることがゆるされるのです。召天者の方々お一人一人が、その証人です。「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注い で主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、(死をもってもむだになることはないと)、あなたがたは知っているか らである。」

(祈り)
天におられる私たちすべての者の父よ、御子イエス・キリストにおいて私共を極みまで愛された神よ。
  あなたがお送りくださった救い主イエス・キリストの「血と肉」をもっての、さらには死にまでの愛と連帯、そして真実を心より感謝いたします。このイエスに よってこそ、私たちは「死の奴隷」から解き放たれ、あなたのために、また隣人たちのために、自分自身をゆだねささげて、喜びと感謝そして希望のうちに生き ることができます。今日共に覚えました召天者の方々は、その生ける証人です。
 どうか、私たち一人一人また教会も、その後からこの道を踏み出し、歩み行き、そして最後まで全うすることができますよう助け、お導きください。
まことの道、真理そして命なるイエス・キリストの御名によって切にお祈りいたします。アーメン。

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