全領域で起こる喜び         ルカによる福音書第19章1〜10節

 
  「そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらであった」とあります。「取税人」というからには、お金がからんでくる話なのです。しかも、 税金の話なのです。ですから、ここには「生々しさ」があります。ザアカイは、社会的な関係と利害の真っただ中にいるのです。
 「取税人」というの は、ローマ帝国から、外国人支配の手下、道具として、税を集めることを請け負わされていた人たちです。彼らには、権利はなく、決まった給料もなかったと思 われます。「これこれの税金を集めなければならない」という義務だけがあったのです。決め方としては、帝国に対して「私なら、一定期間にこれこれの額を集 めることができます」ということで入札して、多い人から決めたようですが、決まった給料というものはなかったのです。では、何があったかと言いますと、 ローマの権力をかさに着て好きなだけ税金を取ることができるという権力が与えられたのです。
 給料がないわけですから、生活していくためには、ローマに納める決まった額以上をどうしても取り立てなくてはなりません。その上乗せ分を自分の収入にしなければならないわけです。ですから、最初から不正に取り立てることを余儀なくされていたわけです。
  ローマは、この取税人を、支配されていたユダヤ人の中から選びました。間接的に支配するわけです。すると、高い税金を取り立てられた不平や恨みは、ローマ 人ではなく、同胞であるユダヤ人の取税人たちに真っ先に向けられます。そして、初めから不正をせざるを得ないわけですから、その憎しみはより一層募らされ るわけです。
 そういうわけで、「取税人」は、同国民から大変憎まれ、嫌われました。それだけでなく、絶えず罪を犯しているということで、「神か ら愛されない者、神の救いから漏れている者」とされてしまっていたのです。かれらは社会からはじき出され、排除され、差別され、孤立していました。ザアカ イもまさにそうでした。彼は、体制の悪、社会の不正にどっぷりつかって生きていたのです。それが、ザアカイを初めから縛りつけていた枠組みでした。
  その上に、ザアカイには個人的な悩みや苦しみがありました。社会の多くの人々から嫌われ孤立しているという寂しさ、疎外感、また心を開いて話せる友がまっ たくというくらいいないこと、さらには自分が「背が低い」という劣等感などなど。彼は、そういう意味で「救い」を必要としていました。彼は自分でも気づか ないところで、「救い」を切に求めていたのです。

 でもそれは、はたしてザアカイ一人のことでしょうか。彼とは異なる時代、社会、立場にある私たち一人一人も、実は同じようなところをたくさん持っている者ではないでしょうか。
  「そういう弱く、貧しい、虐げられていた人々をつまはじきにするような力が、当時の社会の中にはありました。私たち人間の社会は、法律だとか、社会慣習だ とか、長い間に築かれた人間の意識、そういうものが蓄積していて、それによってその枠組からはずれている人間を排除するわけです。」「罪は心理的なもので はありません。関係の中で生まれてくるものです。今日こういう豊かな日本の社会に生きているということの中にも、基本的に社会構造からくる罪の問題という ものがあると思います。―――例えば企業を始めとして日本の社会の中で生活の糧を得て生きていくということは、実際に企業に勤めている方であれ、主婦の方 であれ、教育者であれ、牧師であれ、構造的にこの社会の中に組み込まれていますから、この社会が持っているいろいろな矛盾に何らかの形でコミットしている わけです。そういうことは余り知りたくないということがあると思います。知ってどうなるという気持ちもあるでしょう。」(北村慈郎『自立と共生の場として の教会』より)

 そういうザアカイでありましたが、そのザアカイが住んでいる場に、彼が生きている町エリコに、主イエス・キリストがやっ て来られるのです。そのようにして、「救いは向こうからやって来る」ものなのです。ザアカイのもとに、一つのニュースが飛び込んできました。「ナザレのイ エスが、このエリコの町を通って、エルサレムに行こうとしている」というのです。「取税人や罪人」と呼ばれる者たちとも何のこだわりも差別もなくつき合 い、食卓の交わりさえも持つという先生、どんな人だろう、一目そのイエスという人を見てみたいという思いが、ザアカイの中に起こってきました。単純な好奇 心でした。しかし強い思いでした。その中にも、私は彼の「救い」への求めが芽生えていたと思います。
 そこでザアカイは町の広場へ出かけて行きま した。ところが、ここでも彼は挫折と行き詰まりを経験するのです。町の人々は彼を受け入れず、文字通り「つまはじき」にするのです。「彼は、イエスがどん な人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。」それは、単に人が多かったということではなく、そこには 「こんな奴、入れてやるもんか」という、ザアカイに対する明らかな悪意があったのではないでしょうか。
 それでも、不思議にもザアカイはあきらめ ません。ザアカイは、「イエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。」イエス様の道に「先回り」して、人通りも少なくなった所、 そして高い所からならば、イエスを見ることも不可能ではないと思ったのです。そこには、きっと神による促しがあったのだと思います。神の促しによる、ザア カイの冒険です。

 しかし、イエス・キリストは、主イエスは、そんなザアカイに完全に「先回り」をなさいました。主は、ザアカイの求めのはるか先を行かれました。いや、彼が思い描き、願っていたのとは、全く違うことをなさいました。
  「イエスは、その場所にこられたとき、上を見上げて言われた、『ザアカイよ』。」主は、彼に向かって「ザアカイよ」と、彼をその名前で呼ばれたのです。私 たちは名前をそのままに呼ばれることは少ないです。「おい」とか「あの」とか言われることもありますし、ザアカイの場合は「ちびの取税人」などと言われて いたのではないでしょうか。しかし、主イエスは彼を「ザアカイよ」と名前丸ごとでお呼びになりました。名前は、聖書では、私たち人間の存在そのものを表わ すものなのです。「ザアカイよ」、それは私たち一人一人をも、名前そのものをもって、存在丸ごとを呼び出したもう神の呼び声なのです。
 また、主 はこの時を、思いもよらなかった出会いの時、救いの今、「救いのきょう」とされました。皆さん、ザアカイは、イエス様にどんなことを期待していたと思いま すか。彼はそこまでのことは全く期待も思いもしていなかったでしょう。「いちじく桑」というのは、「葉が大きく、枝は低い」木で、「葉を鬱蒼と茂らせた中 に身を隠すには好都合な木」だそうです。「イエスという人を一目見られれば、それでいい。これもいい経験だ」と思って、またいつもの生活と仕事に戻ってい く、そんなつもりだったでしょう。イエスという人を、一度限りただ行きずりに見るだけ、それだけの関わりで終わるつもりだったでしょう。しかし、主はザア カイにご自分からあえて呼びかけ、これをこの時でしかあり得ない、またとない出会いの時となさったのです。新共同訳聖書を見ますと、「急いで」「きょう」 「ぜひ」と、この三つの言葉が、この出会いに対する差し迫ったイエス様の思いを伝えています。「ぜひ」というのは、「神の意志と計画によってぜひともそう しなければならない」という言い方です。人がただ通り過ぎ、すれ違うだけのつもりだったその時と場を、神は「ぜひとも」という出会いの時と場、「救いの きょう」となさるのです。
 さらに主イエスは、「きょう、あなたの家に泊まることにしている」とおっしゃいました。それは、徹底的・究極的な連帯 の言葉です。ザアカイのすべて、彼の不正にまみれた人との関係と富と、その中で神と隣人に犯してきた数々の罪も、劣等感も優越感もその葛藤も、底知れない 決して満たされることのない孤独・孤立も、すべてを主は彼と共にし、分かち合って、共に生きることをこの行動で表わされたのです。人々はこれをみて、「あ の人は罪人の客となった」とつぶやき、責めました。それはまさに、まっすぐに十字架へと続く、イエス・キリストの道です。

 するとザアカ イは、すぐさまこのように行動しました。「そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。それは、とてつもない喜び、極みもなく大き な喜びでした。それは、彼がイエス様に申し上げたこの言葉から、伝わってきます。「ザアカイは立って主に言った、『主よ、わたしは誓って自分の財産の半分 を貧しい人たちに施します。また、もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します。」
 驚きます。「そんなことをした ら、どうなるのだろう」と思います。はじめに申しましたように、取税人というのは「不正に取り立てることをしなければ、生きて行けない」そういう者たちで あったのです。それが、財産の半分を施し、さらに不正を四倍にして償って行くならば、これはもう、彼の思いはともかくとして取税人は続けて行くわけにはい きません。また、ローマ帝国からしても、そんな取税人が現われてきては、支配体制の根幹が揺るがされ、大いに困ったのではないでしょうか。
 で も、救い主イエス・キリストと出会い、この大いなる喜びを与えられるときに、その人は生き方が変わっていくのです。財産や富、さらには社会の制度に対する 態度・あり方、さらには生き方、またそれに基づく人々との関係が変わっていくのです。イエス・キリストによる喜び、イエスと出会わされた喜びは、私たちの 生きる全領域に及び、全領域から起こるのです。
 「社会の構造的な問題がわかっても、どうしてもすぐ社会を変えることはできません。すぐには変え られないけれども、この社会の問題に気付き、そこからどういう風に自由になって生きていったらよいのかという思いを持って生きていくのと、何もそんなこと を考えないで生きていくのとは違うと思うのです。」「イエスの出来事はーーー一方では貧しく苦しむ人々に喜びをもたらす出来事であり、そして一方ではそう いう人たちを周縁化してゆく社会の中であたかも何事もないかのごとく生きている人たちに気づきを与える出来事です。―――無理解な弟子たちは、少しずつ気 づかされていき、イエスの荷物を背負っていくということは苦しいことであったかも知れませんけれども、人間としての深い喜びをも同時に感じて苦しさに立ち 向かっていくことができたと思うのです。―――いつの間にはかんじがらめになっている私たちのものの見方、生活の仕方、また私たちのさまざまな心の中に巣 くっている文化、人間観、世界観、自然への見方、そういうものがイエスの出来事を通して、神の前に人間は等価だという現実の上に徹底して立つ方向へと招か れている。そこに私たちの歩んでいく道が示されているのではないかと思えてならないわけです。」(北村慈郎、前掲書より)
 そしてザアカイは、今 や「新しい存在」となったのです。「ザーカイは伝説ではキリスト者としてそのまま徴税人の仕事を続け、その後に、カイサリヤ教会の司教となり聖徒として多 くの人に愛され慕われ天にお帰りになったと言われております。ザーカイは、過酷な半生において、社会の人々を排除し、夢中で富を築くが虚しさと孤独ばかり が残る人生でありましたが、イエス様を心に迎え救いを受け、これまでの偏見の冷たい視線の社会を優しく見つめなおせる人に変えられ、許された罪とイエス様 の愛を思うと感謝せずにいられない生涯へと変えられました。」(ナーハルトーブの里・吉川教会ホームページより)
 私たちにも、このイエス・キリストの喜びが起こっていくのです。

(祈り)
私たちすべての者の天の父、御子イエス・キリストにおいて私たちを極みまで愛された神よ。
あ なたは、私たち一人一人が生きている場を見、そこで生きる私を見ておられます。それは、この世の中で、社会で、人々との間で、いつも矛盾と葛藤を抱え、そ して罪や不正にも否応なく関わっている私です。また、自分自身の中でも様々な劣等感や恐れを感じ、どう生きていけばよいか、いつも迷い、罪に生きている私 です。
 しかし、そんな私を、イエス・キリストはわざわざ訪ねて来てくださいました。そして、あなたの深い愛と、私を創り変え新しくする希望を示 し、与えてくださいました。どうか今、あなたに答えて、信仰によって新しい歩み・生き方に一歩を踏み出して行く者とならせてください。私たち一人一人と教 会を、そのようなあなたの証人としてここから送り出し、豊かにお用いください。すべての人の救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アー メン。

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